アラフィフになって、つくづく感じることがあります。
それは「人間に能力差はない」ということ。
若い頃は、能力差ということに敏感でしたが、歳を取るとすっかり考え方が変わります。
違いはあるがどうでもいい
「人間に能力差がない」とは、正確には「問題とすべきような能力差はない」いうことです。
何をするにしても、人それぞれ違いがあります。どんな単純労働にしても、できる人もいれば足を引っ張る人もいる。
優れた技能をもっている人もいればそうでない人もいる。名医もいればやぶ医者もいる。
そういう違いはありますが、その違いを問題とするかしないか。そこが歳を取って変わってくるのです。
人よりできる人がいても、正直どうでもいいと思っているから、その人を褒める気はしない。
足を引っ張る人がいても、なんとか周りでサポートして無難にやっていけばいいから、問題にはしない。
そんな感覚です。
そこにいればいい
昔、俳優の丹波哲郎がテレビ「徹子の部屋」で語っていたことがあります。
太平洋戦争中、丹波哲郎さんは軍隊に召集されたそうです。もとから運動は苦手で、とにかく何をやっても足を引っ張ったそうです。
配属された部隊で、あれこれ仕事を与えられてもできない。「せめて、これならできるだろう」という仕事を与えられても満足にできない。
最終的に、上官から「起居せよ」という命令が下ったそうです。何もしなくていいから部隊で生活していろと。そのまま終戦を迎えたそうです。
それでいいわけです。仕事の足を引っ張っちゃうなら、何もしないでそこにいてくれればいい。それで何の問題もない。
各自ができる仕事をすればいい。できる仕事がないなら、何もしないでいい。
何もしないでいいわけだから、能力差なんて論じる必要はないわけです。
エゴがあるから能力差にこだわる
若い頃、なぜあれほど能力差にこだわったのでしょうか。
それはエゴが強かったからだと思います。自分の利益に敏感だったのです。
名医とやぶ医者の違いでいえば、名医にかかれば救われるし、やぶ医者にかかれば救われないかもしれない。とんでもないことだ。能力というのは大事だ。
そんなふうに考えていました。
しかし、歳をとるとエゴが少なくなるのか、「しょうがない」という感覚があります。
かかる医者も縁だからしょうがない。どのみち命に限りがあるわけだし、命を惜しんでもしょうがない。
こんな感じで、命に関わる能力差についてさえ、どうでもよくなってきたりする。
高齢化が進んで老人が増えると、そんなのんびりした価値観に日本は変わっていくんじゃないでしょうか。
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