映画「水の女」の感想

映画

2002年公開の映画「水の女」を鑑賞したのでメモ。

アーティストのUAさんが好きで、なんとなくwikipediaを観ていて、この映画を知りました。

私が入っている配信サービスでは見当たらないので、GEO宅配レンタルで借りて観ました。

いやー、これは素晴らしい映画です。これは観て良かった。映像が鳥肌たつほど美しいし、物語も味わい深いです。

自然に侵食されている人間

この映画で興味深いのは、主要な登場人物が、どこか自然の一部のようなところです。

雨と深く感応している主人公の涼(水の女)。内なる怒りに振り回されながら罪を重ねていた男(火の男)。心を病んで、街を徘徊するおかーちゃん(土の女)。バイクで旅をしていた女(風の女)。

どこにでもいそうな人々なのに、どこか浮世離れしている感があって、不思議です。

それらの人々が、町の銭湯という場所を中心にして交錯する。

銭湯は、だれもが同じ空間で裸になる場所。社会的な立場や過去や人格をまったく考慮せず、ただ、みんな一緒に裸になる。

今まで気づきませんでしたが、銭湯は日常ではありえないような異空間です。

映像の美しさが尋常ではない

日本映画でここまで映像に感動した映画はめったにないです。

薄汚れた涼の台所でさえ、ほとんどアートといってもいいくらいの映像になってます。

下町の狭くて小汚い街角も、雨の映像はまるで異空間のようです。

監督の杉森秀則さんのことは存じ上げなかったのですが、CM界で有名な人のようです。

涼と男が銭湯で交わるシーンにしても、ちょっと見たことがないレベルの美しさ。桁外れの映像センスだと思います。

人間はもしかしたら私達が思っている存在ではないかも

涼の父親役は、なんとレジェンドの江夏豊。出てくるシーンは少ないけど妙に印象に残ります。

寡黙な男で、まるで石像のよう。夢に出てくるような人物で、どこか浮世離れしています。

この映画はごく普通の日常的なシーンが多いのに、どこか日常からズレているのが心を揺さぶります。

そして思ったのは、私達は「自然と対峙した自由意志のある人間」というのは錯覚で、みんな自然の一部なのではないかと。

みんな大自然の中で、配置され、流れ、動き、交わり、そして消え去るだけではないのかと。

誰もが「日常」を持ち、「感情」を持ち、「過去」を持っている。しかし、銭湯に入るときのように裸になってしまえば、それらの持ち物はすべて一時的なものに過ぎない。

やはり人間はどこまでも自然の一部ではないか。

そんなことを思ったのでした。ときどき見返したくなる映画です。

また観たくなったときにはDVDを買おうと思います。

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